設立の辞(2002年6月1日)

子どもたちが大変だと聞きます。学校も大変だと聞きます。家庭も大変だと聞きます。3つあわせて、教育が大変だと聞きます。今に始まったことではない、以前から言われつづけていることですが、大変だ大変だという声は聞こえて、しかし、私が何とかしようという声を聞きません。三者の中で解決せよといいます。これでは三者の重心の位置が変化するだけで、負担は減らない。いつまでたっても大変なままの所以です。

漂流教室は、それならば自分がという思いを持つ者が集まり創設されました。目指していることは単純です。子ども・家庭・学校の三者でしょっている苦労を私たちも背負うというものです。

現代社会という荒天の大海原を漂流する子どもたち。どこかに流れ着くまでまつか、それとも漂流ではなく自分でオールを漕ぎ出すか。どちらにしても凄まじい気力を必要とすることです。

子どもたちにこれから後の道を示そうとして「教育改革」「ゆとり」という言葉にもがく学校。しかし、実態としては農夫が畑の雑草を毟り取り、育たない作物を間引きするのと同じような社会の論理にからめとられています。

そして、自分たちが予想もしなかった子どもの現実に戸惑う家庭。自分たちが子どもであった頃の話は通用せず、子どもの心がわからないと嘆く親は、子どもという山野で迷い人になってしまったかのようです。

「漂流教室」は大海原を漂流する者の羅針盤にはなりませんが、子どもたちに生き抜く気力を出してもらおうと思います。「漂流教室」は農夫のように役に立つものを求めはせず、学校とは違う土となり子どもたちが育つ基盤を作るように活動します。「漂流教室」は山野を漂泊しながら一つ一つの草木がどのようなものか見ていく樵のような存在を目指します。

不登校であっても登校していても、子どもたちは既に現代社会を漂流しています。ならば、私たちも共に漂流しようと思うのです。